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教育番組はエンターテインメント(昭和34年)
木曜日の夜9時からはEテレの「クラシックTV」と「名将たちの勝負メシ」を続けてみています。「クラシックTV」はピアニストの清塚信也がクラシック音楽を分かりやすく解説してくれるのが秀逸です。「名勝たちの勝負メシ」も芸人トリオネプチューンが食を通じて歴史を面白く伝えてくれます。 Eテレの前身ともいえるNHK教育テレビ局が開局したのが昭和34年(1959年)1月のことです。当時の郵政省は放送の質的向上を目的として教育専門局という制度を作り、教育50%・教養30%の番組編成比率というハードルを設けて他の総合放送局と区別する政策をとりました。 この年2月にはNHKのほかに、民放の教育専門局として日本教育テレビ(NET)が開局しました。5年後の昭和39年にも東京12チャンネルが教育専門局として開局しかし、教育番組では視聴率が取れず、スポンサー収入に頼る民放ビジネスモデルは早々に破綻し現在は存在しません。 ちなみにこれらの局は、現在それぞれテレビ朝日、テレビ東京として放送を続けています。 教育テレビといえばいまから6年前、新型コロナウィルスのまん延がどこのテレ
拓 西島
2 日前読了時間: 2分


県を隔てた関門の突破(昭和33年)
先日、熊本への行きかえり、関門海峡で休憩をとり門司港から下関側を眺めました。関門海峡は狭いところでは600m程度ほどで、頑張って泳いで渡ろうと思えば渡れそうに見えます。しかし潮の流れがとても速く熊でも泳ぎ切ることができず九州にツキノワグマが生息しない理由の一つであるといわれています。 本州と九州が陸路でつながったのは、昭和17年の鉄道の関門トンネル開通が最初でした。その後、自動車が普及して道路でもつながったのが昭和33年の国道2号線の関門トンネル開通です。 いまは新幹線の関門トンネルと中国自動車道と九州自動車道をつなぐ関門橋を加えた4ルートがあり、さらに5つめのルートとして新関門橋の検討もなされています。それだけ本州と九州の往来は盛んになったということが言えます。 関門橋の門司港側にあるめかりPAには、ふぐやミカン菓子など山口の産品が多く置かれています。いまやこの海峡の両側は花火大会が共催されるなどつながりを深め、観光地としても海峡の両岸を楽しむ人が多く訪れます。 まさにこのトンネルの開通を皮切りに県と県のあいだを阻む関門を突破し、県をまたいだ地
拓 西島
6 日前読了時間: 1分


価格破壊が正義だった時代(昭和32年)
高度経済成長の入り口とはいったいどんな世の中だったのでしょうか。 昭和32年時点では、日本の人口は9,000万人強。人口ピラミッドは文字通りピラミッド状で、終戦直後に生まれたベビーブーマーがちょうど小学校高学年に差し掛かり、社会全体は少しずつ豊かになりながらも食べ盛りの子どもを抱えた家庭は家計をやりくりしながらなんとか暮らしていたのでは、と想像します。 そんな世の中に生まれたのがその後、あらゆるものに価格破壊を起こしたといわれるスーパーのダイエーです。当時の社名は大栄薬品工業株式会社。大阪市旭区の千林商店街に「主婦の店・ダイエー」として開店しました。 創始者である中内功氏は、当初、医薬品や化粧品などの商品を大量に仕入れできるだけ消費者に安く売るという業態で成長し、その後、数々のプライベートブランドを開発し、ナショナルブランドに価格で対抗する手法で、やがて総合スーパーの全国チェーンへと成長していきました。 しかし、その後バブル経済が崩壊した時に、借入金を主とする資金調達が仇となってイオンの傘下へと下ることになります。コンビニエンスストアやディスカウ
拓 西島
9月27日読了時間: 2分


自賠責保険は社会インフラ(昭和31年)
山口はご存じの通り車社会です。遠出をするときはもちろん、ちょっとした買い物や近所への用事にも車に乗っていくことが普通です。なので、駅前よりも街道沿いの方が交通量が多くにぎわっており、大きなショッピングセンターの駐車場はいっぱいです。 一度、地元の教習所で聞いたのですが、最も事故が発生しやすいのはショッピングセンターの駐車場なのだそうで、運転には細心の注意が必要です。 昭和30年代は、高度経済成長の始まりで自動車の保有台数も増えてきました。昭和31年(1956年)には交通事故死者数は6,000人、負傷者数は10万人を超えたそうです。その後、自家用車の普及とともに交通事故で犠牲になる人は増え、一時期年間1万人を突破し、交通戦争などと呼ばれていた時期があります。 ちなみに2025年の交通事故死者数は2,547人だそうで、これは長年にわたる法整備や道路設備の充実の賜物といえるでしょう。 しかし、自動車の出始めはノウハウもなく、不幸にも事故にあってしまった場合に、最低限金銭的補償が得られるように、昭和31年(1956年)に始まったのが自賠責保険の制度です。
拓 西島
9月25日読了時間: 2分


自由貿易は豊かさの源泉(昭和30年)
ショッピングモールなどに行くとカルディによく立ち寄ります。輸入食材がいろいろ並んでいて、見ているだけでいつもと違う食卓を想像でき、それだけで楽しくなってきます。実際には作らないのですが。 こうしていろいろな輸入商材を選べるのも自由貿易の枠組みの中に日本があるからです。戦後の日本は、苦難の外交努力の末に昭和30年(1955年)にGATTに正式加入が認められ、自由貿易の枠組みに仲間入りすることとなりました。これがのちの日本の高度経済成長の呼び水になったといわれています。 このGATTという枠組みは、1930年代の世界大恐慌をきっかけに各国が保護主義的な貿易政策をとったことが国家間の摩擦を強め、第二次世界大戦を招いたという反省から生まれたものです。 しかしながら今世界は、米国の相互関税に端を発する関税の応酬が始まっています。気候変動などによる物価高騰もあり、各国のリーダーは内向きな政策をとり勝ちになり、この傾向が続くのではと危惧されます。 はやく開かれた世界に戻ることを願わんばかりです。なにより、ネット通販で海外販売するときに関税を払わなければいけない
拓 西島
9月19日読了時間: 1分


街頭テレビと大衆化社会(昭和29年)
少し前の話となりますが、今年はワールドカップイヤーでした。今大会は午前中に試合が組まれることが多かったこともあり、ほぼ全試合自宅での観戦でしたが、以前は会社の同僚を誘ってスポーツバーで観戦したりもしていました。やはりスポーツは大人数で応援した方が盛り上がるものです。 日本でのパブリックビューイングの先駆けといえるスポーツ中継が開催されたのが、昭和29年(1954年)に行われた日本初の国際プロレス大会です。「力道山・木村政彦-シャープ兄弟」の一戦は日本中を熱狂の渦に巻き込みました。 パブリックビューイングといっても、そもそも一般家庭ではテレビ受像機はほとんど普及しておらず、人々は街頭テレビで放送を視聴していました。それでも新橋駅前などではこのテレビ中継には2万にもの人が集まったというから驚きです。 街頭テレビなどというものは、今の世の中ではほとんど見ることがなくなりましたが、この仕組みを始めたのは、日本テレビの創始者である正力松太郎でした。日本テレビと言えば、日本最初の民放テレビ局であり、その収入源はスポンサーからの広告によるものでした。...
拓 西島
9月13日読了時間: 2分


セルフサービスは賢い消費者のはじまり(昭和28年)
今や買い物をしに行くときには、ほぼスーパーマーケットなどのセルフサービスの店に行くことになります。セルフサービスとは、消費者自らが商品を選び、レジで精算をするという小売業の形態です。 このセルフサービスの日本での第一号店が、昭和28年(1953年)東京・青山にできた紀ノ国屋とされています。それまでの小売業は対面販売が主たるもので、商品の情報や金額のやり取りを会話によって成立させていました。笠木シヅ子の「買い物ブギ」のようなやり取りが日常的に行われていたものと想像します。 セルフサービスでは販売員を介すことなく大量の商品を一度に販売できます。小売店にとっては、人件費の抑制と商品の大量仕入れによって安価で販売することが可能になり、強い競争力を得ることになります。 このセルフサービスの普及には、レジスターの開発が大きく影響したと考えられますが、もうひとつ大きな役割を担ったと考えられるが、テレビ放送をはじめとするマスコミュニケーションの発達です。 折しも、1953年は日本でのテレビの本放送が開始された年です。NHKによる放送のほかに民間放送局として日本テ
拓 西島
9月6日読了時間: 2分


為替ルールが世界を守る(昭和27年)
ここのところ円安の進行が私たちの生活にも影響を与えています。かと思えば国家による為替介入が行われ急に円高方向に振れる、なんてニュースもよく耳にします。実はこの為替介入、何度でもやっていいというわけではないようです。 IMF(国際通貨基金)という国際機関が、為替介入に関してもガイドラインを定めており、「過去6カ月間に、為替介入が3回以内であること、かつそれぞれの介入が3営業日以内に収まっていること」という目安が存在し、国家による介入はこれを意識して行われています。 なぜこのようなルールが定められているかというと、1929年(昭和4年)から始まった世界大恐慌の当時には国際的な金融や為替を管轄する国際機関が存在せず、各国が自国産業を守るために為替の切り下げ競争に走った結果、国際的な緊張関係を蔓延させ第二次世界大戦を引き起こした、という反省からです。 IMF(国際通貨基金)は、1944年に調印されたIMF協定に基づき1945年12月に設立。為替に対するルールの設定だけでなく、経済危機に瀕した加盟国への一時的な資金提供を通じて国際社会に安定と安心をもたらす
拓 西島
9月5日読了時間: 2分


ユネスコ活動は民間から(昭和26年)
日本に登録されている世界遺産は令和8年9月現在、27件あります。世界遺産への登録は、地域にとっては大きな観光資源となり来訪客の増加につながることから、各自治体が競って登録を目指している感があります。 この世界遺産の登録認定を行っているのが、ユネスコ(UNESCO 国際連合教育科学文化機関)です。日本がユネスコに加盟したのが昭和26年(1951年)のことでした。しかし、日本が国際連合に加盟したのは昭和31年(1956年)で、それより先にユネスコには加盟していることになります。 その陰には、日本ユネスコ協力会の母体となった仙台ユネスコ協力会という民間団体の活動がありました。終戦直後、外務省東北終戦連絡事務局連絡官として仙台で任務にあたっていた上田康一氏が、第二次世界大戦の反省も踏まえて定められたユネスコ憲章の前文に感銘を受けて、民間運動としてこの協力会を立ち上げたそうです。 このユネスコへの加盟は、日本の国際社会への復帰の最初の場となりました。このユネスコ協力会は世界初の民間ユネスコ活動ともされており、このような活動なくしてこれだけ早期の国際社会への
拓 西島
9月3日読了時間: 2分


スマホ社会は電波法から(昭和25年)
このたび割れた携帯電話の修理は秋葉原の店で晴れて完了することができました。もはやスマートフォンなしでは暮らせない世の中において、再びなんとか快適に使えるようになってほっとしております。 総務省の統計によれば、2025年3月時点の移動系通信の契約数は2億3,142万となっておりなんと日本の人口より多くなっています。これだけの通信機器が溢れかえっていても混線が起きないのは、昭和25年(1950年)に制定された電波法により電波の利用がきちんと国によって管理されているからと言えます。 具体的には、電波を利用するためには (1)定められた規格の機器を使用する。 (2)無線局の免許を受ける。 (3)資格を持った人(無線従事者)が操作する。 ことが求められます。 私たちは無線局の免許や無線従事者の資格を取ることなく携帯電話を使用することができていますが、これは携帯電話会社が一括してその免許を取得しているという形になっているためです。 電波法は、電波の公平かつ能率的な利用を確保することによって、公共の福祉を増進することを目的として制定されたわけですが、この
拓 西島
8月30日読了時間: 2分


デフレ誘導政策の是非(昭和24年)
最近外食をする機会が減りました。お酒が弱くなったというのもありますが、やはりここ最近の物価高は懐具合に大きく影響しており、外食をして帰るなんてことがほとんどなくなってきました。 いま、世界的な不確実性に端を発する物価高が進行していますが、戦後すぐにも急速なインフレが進行していたことは以前の記事でも記載しました。このインフレを克服すべく、GHQの顧問として招聘されたドッジ公使により示された経済安定化策「ドッジ・ライン」が予算に反映されたのが昭和24年(1949年)のことでした。 この政策により補助金の抑制などにより通貨供給量を減らし、インフレを抑えて物価の安定化につながりました。しかし一方で、産業界では深刻な資金不足により不況が発生し、大量解雇や倒産が相次ぎました。 特に国鉄職員は10万人近い整理対象者を出し、松川事件など国鉄をめぐる数々の怪事件を引き起こすきっかけとなったといわれ、社会が不安定化していったといわれています。 転じて、現在もインフレが進行しつつありますが、いまのところインフレを抑制してデフレに誘導しようという動きはなく、むしろ積極財
拓 西島
8月29日読了時間: 2分


近くて遠い隣国のはじまり(昭和23年)
先日、下関を訪れたときちょうど馬関まつりというお祭りをやっているところでした。このお祭り自体は戦後、昭和53年(1978年)に始まったのだそうですが、このお祭りの初日には朝鮮通信使行列再現というパレードが開かれ、海の向こうの釜山から市長や市民がやってきていたようです。 下関と釜山のつながりは深く、いまも関釜フェリーという船が毎日1便対馬海峡を往復しています。昨年の3月には私もこの関釜フェリーに乗って韓国を訪れました。 その韓国(大韓民国)が樹立されたのが昭和23年(1948年)です。日本の占領時代が終わり、朝鮮半島に独立国家できたわけですが、もう一つの国、北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)もこの年に独立をしています。 この時、同じ地域に2つの国ができたことが多くの悲劇を生んできました。お互いの国を敵視し、相手国に少しでもかかわりがあると疑うと、容赦なく拒絶しある時は抹殺してしまうこともありました。 同じ昭和23年に発生した済州島での住民蜂起では、赤狩りと称して25,000人~30,000人の島民が虐殺されたといわれています。アジア初のノーベル文学賞作家
拓 西島
8月27日読了時間: 2分


地方自治は住民の手で(昭和22年)
私が住む萩市では、昨年春に市長選、今年の春に議会選挙がありました。選挙になるといろいろな人から支援を頼まれたりするのは小さな町ならではなのでしょうか。私には若干煩わしかったりしますが、それだけ住民が地方自治に関心があるという点ではとても健全なのかもしれません。 選挙と言えば、今年のはじめに県知事選挙がありました。この県知事を選挙で選ぶ仕組みができたのは昭和22年(1947年)5月3日に、日本国憲法が施行されるのに合わせて、地方自治法が施行されたのが始まりです。 それまでの県知事は、国によって決められた人物が担うことになっており、都道府県はいわば国の出先機関のようなものでした。しかし、地方自治法の施行後は住民による直接選挙で選ぶようになり、同時に地方議会の権限の強化も図られました。 地方自治体は、住民によってえらばれた首長および議会によって、条例の制定や予算の執行も独自に行うようになり、まさに住民による住民のための地方自治が行われることとなったのです。 では、地方自治体が本当に国の出先機関から脱することができているのかというと、現実はそうとは言えな
拓 西島
8月23日読了時間: 2分


令和の農地改革は(昭和21年)
萩に住んでいると時々、田植えイベントに参加させてもらうことがあります。大体1面の田んぼに参加者が一列になって手で植えていきますがそれでも1時間くらいはかかります。のこりは大体、機械で植えていきます。さすがに今の世の中、手で植える田んぼはそうはないようです。 昨日の記事では、農家の小規模化が生産性向上の障壁になっているという話をしましたが、これは人口減少が始まった現代の話であって、戦後すぐは全く状況が異なっていたようです。 戦前の農地は、地主が耕作者に土地を貸し賃料を徴収するという小作農が全国各地で見られました。賃料が高く小作人たちに蓄積がなかったのに加え、地主は得た収益を農業ではなく工業などに投資したために、農業の生産性が上がらない状況が認識されていました。 こうした地主たちの存在が、農家の貧困を生みだし疲弊した農村の再建を掲げた日本のファシズムの温床となったことから、この状況をGHQも問題視していたようです。 そうした中、昭和21年(1946年)に行われた農地改革では、国が地主から土地を買い上げ、小作農たちに売り渡すということが行われました。こ
拓 西島
8月17日読了時間: 2分


全振り経済の恐ろしさ(昭和20年)
庭に雑草をはやしておくのももったいないので、ここ数年ほんの猫の額ほどの敷地ですが、野菜の苗を買ってきて植えてみたりしています。しかし、素人農業では満足な収穫もままならず、自給自足などというのは夢のまた夢です。であるからこそ、現代社会においては市場から必要なものを貨幣を用いて交換しあうという経済活動が重要なわけです。 今日は終戦の日。81年前の昭和20年(1945年)ポツダム宣言を受け入れて天皇陛下による玉音放送が流れた日です。ようやく戦争が終わり、人々は安寧な暮らしを取り戻したのかというと決してそうではなかったようです。 戦時中は投資が軍需産業に振り向けられて一般生活に必要な物資が不足したうえに、軍需景気によりインフレがおき、物価が上昇し庶民は法外な値段で闇市から生活必需品を入手しなければなりませんでした。 さらに敗戦によって生産設備が失われたために、昭和20年ごろの鉱工業生産指数は昭和10年頃の20分の1まで落ち込んでいたようです。さらに戦地からの帰還兵が復員したことによって需給バランスが崩れ、政府がどのような手を打ってもインフレを止めることが
拓 西島
8月15日読了時間: 2分


交通は競争か統合か(昭和19年)
私が鉄道好きになったきっかけは、母の実家が阪急沿線にありあのマルーン色の上品な電車に乗ることが夏休みの楽しい思い出に直結していたからだと思っています。そして、関西はバラエティに富んだ私鉄が走っており、並走するJRと熾烈な競争を繰り広げています。 関西の私鉄、いや日本の私鉄で一番営業距離が長いのが近畿日本鉄道、いわゆる近鉄です。この近畿日本鉄道という会社が生まれたのが昭和19年(1944年)の6月のこと。いまの近鉄の路線を管轄していた関西急行鉄道と、南海電鉄の前身の南海鉄道が合併する形で生まれました。 このころは戦時体制で、物資や兵員の輸送を円滑にすすめるべく鉄道会社の統合が推し進められていきました。阪急電鉄も昭和18年(1943年)京阪電鉄との統合によって京阪神急行となり、今のように京都・大阪・神戸を結ぶ形となりました。 鉄道の統合は、戦争末期に多く行われたわけですが、昭和13年(1938年)に成立した陸上交通事業調整法がそのベースになっているともいわれています。 この法律は、主に都市部に乱立した交通事業者が過当な競争によって疲弊してしまうのを防
拓 西島
8月13日読了時間: 2分


都政のはじまりは非常事態から(昭和18年)
ここのところ月1回のペースで東京に行っています。わずかではありますが、ありがたいことに東京都のお仕事をいただくことができており、交通費の足しになっています。診断士の仕事をしていると、東京都の支援策を調べることがありますが、他の地方自治体では考えられないほどの大きな予算がついていたり、その規模の大きさを感じます。 今でこそ都知事選が全国ニュースで報じられるほど重要な行政機関になっている東京都ですが、都政が開始されたのは意外にも戦時中の昭和18年(1943年)のことでした。それまでの東京都は東京府という名前で、その中にいまの23区のエリアにあたる東京市が存在していました。戦争が激化するにあたり防火体制の整備など迅速に進めることが強く求められ、府と市の二重行政を解消することとなりました。 東京都の構想は、東京中心部への急速な人口増加に伴って、それ以前から議論されていましたが、知事の公選制の導入などをめぐり折り合いが合わず、実現までに半世紀近くの時間を要したことになります。 戦後、東京都は焦土と化した街を復興させる必要に迫られましたが、日本の首都を復興さ
拓 西島
8月11日読了時間: 2分


外食はぜいたく品か?(昭和17年)
私は「大衆食堂」というスタイルの食堂が好きで、外出先で見つけるとうれしくなってお昼をいただきに行っていました。お手軽な値段で、栄養バランスもよくて私のような独身男の強い味方でした。 しかし、最近は物価高でそうしたお店も見かけなくなってしまいとても寂しい感じがします。というよりそもそも外食自体の値段が上がりすぎて、スーパーでパンを買ってお昼を済ませることもしばしばです。できるだけランチ代を節約したい人間にとっては受難の時代です。 戦時中ももちろん外で食事をしなければならない人々はいました。昭和17年(1942年)に戦時下の食糧難をしのぐために成立・施行された「食糧管理法」では、米などの主要穀物類は政府がすべて買い上げたうえで、各世帯に配給することとなりました。しかし、それでは自炊が困難な労働者などは食料にありつけないということになってしまいます。 そこで採用されたのが「外食券」という制度です。「外食券」を所定の食堂にもっていけば一定量の食事ができるという仕組みです。(逆に言うと「外食券」がなければ外で食事ができない世の中だったということです。)ちな
拓 西島
8月9日読了時間: 2分


脱ガソリンが実現する日は(昭和16年)
昨年の大阪関西万博では外周道路を電気バスが走っていました。CO2排出削減のための技術を示すためにすべてのバスが電気自動車となっていました。CO2排出が地球温暖化の主な原因とされ、脱石油は喫緊の課題ではあるのですが、これは今に限ったことではありません。 昭和初期には、世界的にガソリン需要が高まり代替え燃料の開発が進んでいました。日本においては、木炭を不完全燃焼させ一酸化炭素をガソリンエンジンに送り込むという木炭自動車が普及していました。 とくに、昭和16年(1941年)8月1日に米国が石油の対日輸出を全面停止してからは、民間へのガソリン供給が非常に乏しいものとなり、バス会社へのガソリン供給も事実上停止することとなりました。 木炭自動車は、それまで日本で使われていた燃料である薪で自動車が走らせられるという画期的なものでしたが、映画「この世界の片隅に」でも登場した木炭バスが呉の急坂を登れずに立ち往生するというシーンが出てくるように、技術的にもまだまだ未熟だったようです。 エネルギー危機が起こるたびに新しい技術が開発されるのですが、いまだ人類は石油依存の
拓 西島
8月7日読了時間: 2分


幻の万国博覧会(昭和15年)
飛行機で山口から東京へ向かうとき左側の窓側の席を取ると、天気がよければ昨年の大阪関西万博の会場であった舞洲を見ることができます。会期中はくっきりと見えていた大屋根リングが、今は一部しか残されていないのも上空から見ることができます。 実は、日本で初めて開催される万国博覧会は昭和15年(1940年)に東京・横浜を会場として行われるはずでした。皇紀2600年を記念した行事ということもあり、膨大な予算を投じて行われる予定でした。 しかし、国際博覧会条約の規約上の問題に加え、日中戦争の長期化により時局に配慮して万博中止論が高まり、昭和13年(1938年)に延期が決定されました。 なお、中止ではなく延期であったため、このとき販売されていた前売り券が、その後の大阪万博(昭和45年)、愛・地球博(平成17年)、大阪関西万博(令和7年)でも有効とされました。 ちなみに、隅田川にかかる勝鬨橋はこの万博のために架けられた橋でいわば幻の万博レガシーと言えます。もし、このとき東京・横浜で万国博覧会が行われていたらもっと多くのレガシーが残され、街並みも違ったものになっていた
拓 西島
8月4日読了時間: 2分
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