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令和の農地改革は(昭和21年)
萩に住んでいると時々、田植えイベントに参加させてもらうことがあります。大体1面の田んぼに参加者が一列になって手で植えていきますがそれでも1時間くらいはかかります。のこりは大体、機械で植えていきます。さすがに今の世の中、手で植える田んぼはそうはないようです。 昨日の記事では、農家の小規模化が生産性向上の障壁になっているという話をしましたが、これは人口減少が始まった現代の話であって、戦後すぐは全く状況が異なっていたようです。 戦前の農地は、地主が耕作者に土地を貸し賃料を徴収するという小作農が全国各地で見られました。賃料が高く小作人たちに蓄積がなかったのに加え、地主は得た収益を農業ではなく工業などに投資したために、農業の生産性が上がらない状況が認識されていました。 こうした地主たちの存在が、農家の貧困を生みだし疲弊した農村の再建を掲げた日本のファシズムの温床となったことから、この状況をGHQも問題視していたようです。 そうした中、昭和21年(1946年)に行われた農地改革では、国が地主から土地を買い上げ、小作農たちに売り渡すということが行われました。こ
拓 西島
4 日前読了時間: 2分


全振り経済の恐ろしさ(昭和20年)
庭に雑草をはやしておくのももったいないので、ここ数年ほんの猫の額ほどの敷地ですが、野菜の苗を買ってきて植えてみたりしています。しかし、素人農業では満足な収穫もままならず、自給自足などというのは夢のまた夢です。であるからこそ、現代社会においては市場から必要なものを貨幣を用いて交換しあうという経済活動が重要なわけです。 今日は終戦の日。81年前の昭和20年(1945年)ポツダム宣言を受け入れて天皇陛下による玉音放送が流れた日です。ようやく戦争が終わり、人々は安寧な暮らしを取り戻したのかというと決してそうではなかったようです。 戦時中は投資が軍需産業に振り向けられて一般生活に必要な物資が不足したうえに、軍需景気によりインフレがおき、物価が上昇し庶民は法外な値段で闇市から生活必需品を入手しなければなりませんでした。 さらに敗戦によって生産設備が失われたために、昭和20年ごろの鉱工業生産指数は昭和10年頃の20分の1まで落ち込んでいたようです。さらに戦地からの帰還兵が復員したことによって需給バランスが崩れ、政府がどのような手を打ってもインフレを止めることが
拓 西島
7 日前読了時間: 2分


交通は競争か統合か(昭和19年)
私が鉄道好きになったきっかけは、母の実家が阪急沿線にありあのマルーン色の上品な電車に乗ることが夏休みの楽しい思い出に直結していたからだと思っています。そして、関西はバラエティに富んだ私鉄が走っており、並走するJRと熾烈な競争を繰り広げています。 関西の私鉄、いや日本の私鉄で一番営業距離が長いのが近畿日本鉄道、いわゆる近鉄です。この近畿日本鉄道という会社が生まれたのが昭和19年(1944年)の6月のこと。いまの近鉄の路線を管轄していた関西急行鉄道と、南海電鉄の前身の南海鉄道が合併する形で生まれました。 このころは戦時体制で、物資や兵員の輸送を円滑にすすめるべく鉄道会社の統合が推し進められていきました。阪急電鉄も昭和18年(1943年)京阪電鉄との統合によって京阪神急行となり、今のように京都・大阪・神戸を結ぶ形となりました。 鉄道の統合は、戦争末期に多く行われたわけですが、昭和13年(1938年)に成立した陸上交通事業調整法がそのベースになっているともいわれています。 この法律は、主に都市部に乱立した交通事業者が過当な競争によって疲弊してしまうのを防
拓 西島
8月13日読了時間: 2分


都政のはじまりは非常事態から(昭和18年)
ここのところ月1回のペースで東京に行っています。わずかではありますが、ありがたいことに東京都のお仕事をいただくことができており、交通費の足しになっています。診断士の仕事をしていると、東京都の支援策を調べることがありますが、他の地方自治体では考えられないほどの大きな予算がついていたり、その規模の大きさを感じます。 今でこそ都知事選が全国ニュースで報じられるほど重要な行政機関になっている東京都ですが、都政が開始されたのは意外にも戦時中の昭和18年(1943年)のことでした。それまでの東京都は東京府という名前で、その中にいまの23区のエリアにあたる東京市が存在していました。戦争が激化するにあたり防火体制の整備など迅速に進めることが強く求められ、府と市の二重行政を解消することとなりました。 東京都の構想は、東京中心部への急速な人口増加に伴って、それ以前から議論されていましたが、知事の公選制の導入などをめぐり折り合いが合わず、実現までに半世紀近くの時間を要したことになります。 戦後、東京都は焦土と化した街を復興させる必要に迫られましたが、日本の首都を復興さ
拓 西島
8月11日読了時間: 2分


外食はぜいたく品か?(昭和17年)
私は「大衆食堂」というスタイルの食堂が好きで、外出先で見つけるとうれしくなってお昼をいただきに行っていました。お手軽な値段で、栄養バランスもよくて私のような独身男の強い味方でした。 しかし、最近は物価高でそうしたお店も見かけなくなってしまいとても寂しい感じがします。というよりそもそも外食自体の値段が上がりすぎて、スーパーでパンを買ってお昼を済ませることもしばしばです。できるだけランチ代を節約したい人間にとっては受難の時代です。 戦時中ももちろん外で食事をしなければならない人々はいました。昭和17年(1942年)に戦時下の食糧難をしのぐために成立・施行された「食糧管理法」では、米などの主要穀物類は政府がすべて買い上げたうえで、各世帯に配給することとなりました。しかし、それでは自炊が困難な労働者などは食料にありつけないということになってしまいます。 そこで採用されたのが「外食券」という制度です。「外食券」を所定の食堂にもっていけば一定量の食事ができるという仕組みです。(逆に言うと「外食券」がなければ外で食事ができない世の中だったということです。)ちな
拓 西島
8月9日読了時間: 2分


脱ガソリンが実現する日は(昭和16年)
昨年の大阪関西万博では外周道路を電気バスが走っていました。CO2排出削減のための技術を示すためにすべてのバスが電気自動車となっていました。CO2排出が地球温暖化の主な原因とされ、脱石油は喫緊の課題ではあるのですが、これは今に限ったことではありません。 昭和初期には、世界的にガソリン需要が高まり代替え燃料の開発が進んでいました。日本においては、木炭を不完全燃焼させ一酸化炭素をガソリンエンジンに送り込むという木炭自動車が普及していました。 とくに、昭和16年(1941年)8月1日に米国が石油の対日輸出を全面停止してからは、民間へのガソリン供給が非常に乏しいものとなり、バス会社へのガソリン供給も事実上停止することとなりました。 木炭自動車は、それまで日本で使われていた燃料である薪で自動車が走らせられるという画期的なものでしたが、映画「この世界の片隅に」でも登場した木炭バスが呉の急坂を登れずに立ち往生するというシーンが出てくるように、技術的にもまだまだ未熟だったようです。 エネルギー危機が起こるたびに新しい技術が開発されるのですが、いまだ人類は石油依存の
拓 西島
8月7日読了時間: 2分


幻の万国博覧会(昭和15年)
飛行機で山口から東京へ向かうとき左側の窓側の席を取ると、天気がよければ昨年の大阪関西万博の会場であった舞洲を見ることができます。会期中はくっきりと見えていた大屋根リングが、今は一部しか残されていないのも上空から見ることができます。 実は、日本で初めて開催される万国博覧会は昭和15年(1940年)に東京・横浜を会場として行われるはずでした。皇紀2600年を記念した行事ということもあり、膨大な予算を投じて行われる予定でした。 しかし、国際博覧会条約の規約上の問題に加え、日中戦争の長期化により時局に配慮して万博中止論が高まり、昭和13年(1938年)に延期が決定されました。 なお、中止ではなく延期であったため、このとき販売されていた前売り券が、その後の大阪万博(昭和45年)、愛・地球博(平成17年)、大阪関西万博(令和7年)でも有効とされました。 ちなみに、隅田川にかかる勝鬨橋はこの万博のために架けられた橋でいわば幻の万博レガシーと言えます。もし、このとき東京・横浜で万国博覧会が行われていたらもっと多くのレガシーが残され、街並みも違ったものになっていた
拓 西島
8月4日読了時間: 2分


ものの値段は誰にも決められない(昭和14年)
先日、今年の今年の最低賃金引上げ幅を全国加重平均で55円を目安とする基準が国の審議会で決定したというニュースがありました。物価が上昇するのに合わせて賃金が上昇しなければ国民の生活は立ち行かないというのが国の考え方です。 しかし、以前はこれとは全く逆の発想でモノの値段も賃金も一定金額にとどめてしまおうとする政策がとられたことがありました。それが昭和14年(1939年)に制定されたの「価格等統制令」と「賃金統制令」です。 このような政策がとられるようになった背景には、日中戦争勃発による軍需景気による物価の高騰や、特に軍事産業に関わる重工業の労働者の賃金上昇も見られるようになり、国民生活への影響や、熟練労働者の引き抜き合戦などが発生し、激しいインフレが社会に混乱をきたしていたことがあります。 また、戦争が激化するに伴い昭和13年(1938年)に制定された「国家総動員法」により、「国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」ためにインフレによる混乱を抑えることにありました。 しかし、実際の市場においては、制度の抜け道を使い価格を引き上
拓 西島
8月2日読了時間: 2分


有限責任が事業を大胆にする(昭和13年)
自分で事業を始めると、その経済的な責任の重さはサラリーマンの比ではありません。仕入れ先への支払いが滞れば事業はできなくなりますし、従業員への給料が払えなくなれば、多くの人を露頭に迷わせてしまいます。 したがって、事業主というのは原則、私財をなげうってでもこれらの支払いに対応しなければなりません。これを「無限責任」と言います。 一方で、株式会社などの法人の場合、出資した金額の範囲で責任を負えばいいとされ、仮に事業が破綻したとしても出資した分の財産を失うだけで、自分の財産まで失うことはありません。これを「有限責任」と言います。有限責任であれば、思い切った事業にもチャレンジしやすくなります。 「有限責任」の仕組のもう一つメリットは、私財までを失うリスクを避けられるがゆえに大きな資金を集めることができるという点です。すなわち有限責任会社、とくにその典型である株式会社の目的は、会社規模を拡大させ大会社を作ることにあります。 一方、中小企業にも「有限責任」のメリットを享受させることを目的とした、有限会社法が昭和13年(1938年)に公布されました。...
拓 西島
7月30日読了時間: 2分


世界のTOYOTAのはじまり(昭和12年)
最近、萩のスナックで昔の萩を記録した写真集を見ていました。結構古い写真が残っていて昭和初期のものもあったのですが、戦前の写真にはほとんど自動車の姿はありませんでした。すっかり車社会になった今からは想像がつかないくらいです。 現在の日本の自動車産業をけん引している会社といえばトヨタ自動車です。トヨタはとくにジャストインタイムという生産方式で無駄な在庫を持たず、必要なだけ生産することで利益を確保し、成長してきました。 その会社の設立はトヨタ自動車工業という名で今から89年前の昭和12年(1937年)のこと。母体となっていたのは豊田自動織機という会社で織物機械を製造していましたが、すでに海外で大衆化が始めっていた自動車産業への参入を決断しました。 ジャストインタイムという考え方はすでに会社設立の時からあり、新工場の挙母工場でも取り入れられる予定でした。とくに自動車産業では部品の数も多く、設計が改良されるごとにその部品を変更することになり、不要な在庫を抱えているとすべて廃棄しなければならなくなるという事情もあったようです。 しかし、戦争の影響が及び2年後
拓 西島
7月26日読了時間: 2分


いつの世も自然災害への備えを(昭和11年)
梅雨が明けてからというもの打って変わって暑い日が続き体が参ってしまいそうでしたが、今日は久しぶりに雨が降りました。しかし降るときは極端で、帰宅する道中文字通りバケツをひっくり返すような大雨で面喰いました。 自分の家の前には川があり、晴れの日が続くと枯れてしまうような小さな川なのですが、ひとたび大雨が降ると恐ろしい轟音を立てて急流に豹変するため気が休まりません。 いつの世も大雨による災害は悲惨で、昭和11年(1936年)11月には、秋田県現鹿角市にあった尾去沢鉱山中沢ダムが決壊、下流の集落を襲い374人が犠牲になるという大惨事になりました。 鉱山ダムというのは、よく聞く川の水をせき止めるためのダムではなく、鉱山で出た廃棄物を貯めて流域に出ないようにしておくもので、現代の日本においてはあまりなじみがありません。 しかし、5年前に静岡県熱海市で上流域の盛り土が決壊し28名が犠牲になった事件は記憶に新しいところです。 実のところ、私の家の近くでは雨が降っていないにもかかわらず道路ののり面が突如決壊するという事故が数年前にありました。また、採石場なのか山肌
拓 西島
7月17日読了時間: 2分


国際放送は国際関係の写し絵(昭和10年)
私は、今オンラインで英語の勉強をしているのですが、これとは別にNHK Worldのネット配信を見ています。日本の文化や出来事を映像とともに英語で説明しているので、単語が多少わからなくても内容が入ってくるのが利点です。 このNHKの国際放送がはじまったのが、昭和10年(1935年)のことでした。当時は短波ラジオ放送で、日本語と英語の放送で北米やハワイ向けへの放送であったとされます。在外邦人向けや対外広報のために、ニュース、音楽、演芸などを放送されていたそうです。 当時の日本は、2年前に国際連盟を脱退して国際社会とは緊張関係にありました。しかし、一方で石油の調達先は英米に頼っている状況で、米国との関係維持の狙いも垣間見えます。 現在のNHK Worldでは、国内外のニュースのほか、日本文化の紹介や日本語学習、日本での防災情報など、訪日観光客や在留外国人に向けた情報が多いように見えます。これも訪日外国人観光客の増加目標や、人手不足解消のために外国人を受け入れている国の政策とも合致しているようです。 いずれにしろ日本のことを海外に知ってもらうことは、日本
拓 西島
7月13日読了時間: 2分


技術革新がつないだトンネル(昭和9年)
今回、実家に寄った後に大阪に向かったため久しぶりに東海道新幹線に乗りました。ただ昨日飲んだビールで二日酔いになってしまい新横浜で乗車後すぐに意識を失い、目が覚めて景色を見たら真っ暗、青函トンネルができるまで日本一の長さだったといわれた新丹那トンネルの中でした。 「新」とついているのは、在来線である東海道本線の方に先に「丹那トンネル」が開通していたから。この丹那トンネルは熱海駅~函南駅間に通じる約8kmの長いトンネルで、昭和9年(1934年)に開通しました。 着工したのが大正7年(1918年)で、当初は7年間で開通する計画だったようですが、湧き水に悩まされ15年以上もの歳月をかけることとなりました。掘削当初は、すべて人力で掘り進めていたということで牛や馬を駆使して土砂を運び出していたそうです。 その後、電化が進み関通時には削岩機で掘り進めていたというから工事開始時と終了時で全く異なる掘削風景であったことが伺われます。それだけ様々な技術を駆使して開通が望まれていたということなのでしょう。 このトンネルが開通したことにより、国府津から箱根の山を北へ迂回
拓 西島
7月11日読了時間: 2分


地下鉄は大阪を守る心臓部(昭和8年)
大阪メトロ 舞洲駅 2025年6月13日 丁度一年ほど前、大阪・関西万博を訪れました。公共交通機関で会場へ向かうには大阪メトロで舞洲駅へ向かうルート1本のみでした。当時は3分に1本という過密ダイヤで多くの来場者を運んでいました。 大阪メトロは2018年に民営化されてできた鉄道会社ですが、それまでは大阪市が運営を行っていました。日本で初めての公営地下鉄として梅田-心斎橋間で、昭和8年(1933年)大阪市営地下鉄は開業しました。 とくにこの時開業した梅田、淀屋橋、本町、心斎橋の4駅は今もその構造が残るドーム状のモダンな造りで、駅ごとに異なるシャンデリアが施されていました。この造りは、当時の大阪市長、関一氏が「世界に恥じないものを作れ」という指示のもと作られたものだそうです。 この地下鉄の駅の構造は、のちの戦争で防空壕のような役割を担ったといわれています。公式な記録は残っていないものの、1945年3月の大阪空襲の際に、被害の大きかった難波・心斎橋のエリアから梅田方面に多くの避難者を運んだという証言があるそうです。 開通当時、防空壕として使われることは想
拓 西島
6月28日読了時間: 2分


秋葉原の鉄橋は震災復興のシンボル(昭和7年)
東京でプロ野球を見るといえば、東京ドームか神宮球場。いずれの球場もJRで行く場合はこの黄色い電車に乗る必要があります。この黄色い電車「総武線」と呼ばれることがありますが、実は東京ドームがある水道橋駅も神宮球場がある千駄ヶ谷駅も中央線の駅です。 実はかつて、総武線は両国駅までしか来ておらず都心には乗り入れておりませんでした。両国駅と御茶ノ水駅のあいだが開通したのは、昭和7年(1932年)のことです。 総武線が両国駅から御茶ノ水駅に向かう途中、秋葉原駅を出た後すぐにアーチ状鉄橋を渡ります。この鉄橋は地上から10m近くの高さを通り、今でもランドマーク的な存在になっています。 両国駅と御茶ノ水駅間の開通は、中央線の御茶ノ水-中野駅間の複々線化と合わせて計画されました。そしてのちに今のように総武線が中央線に乗り入れることとなります。 これらの計画は、9年前(1923年)に起きた関東大震災の復興事業として行われており、この計画により東京の近代化が大きく進んだといわれています。 関東大震災においては木造家屋の火災や、橋の消失による避難路の寸断によって多くの犠牲
拓 西島
6月20日読了時間: 2分


羽田は空港の最適地(昭和6年)
山口から帰郷するときはもっぱら飛行機利用です。なので羽田空港は毎回立ち寄る場所です。都心にもアクセスがよく、午前中の便なら午後から都内の訪問先へ伺えます。実家へも1時間余りで到着できるので断然便利です。 この羽田の地に空港ができたのが、昭和6年(1931年)のことだそうです。 東京国際空港(羽田)60年の歩み(国際空港ニュース社編集部・1991年) https://archiveservier-airportreview-s3.s3.ap-northeast-1.amazonaws.com/target/target3/1991年78号/1991年_078号_「東京国際空港(羽田)60年の歩み」.pdf 以前、昭和3年に日本で初めての民間航空会社ができたことをこのBlogでも紹介しましたが当初、東京の玄関口としては立川の飛行場が使われていました。しかし、軍民共用で問題が多かったことや都心から遠かったことなどから、羽田沖に移転されることになりました。 その後、航空輸送の発展に応じて発展し、戦後の米軍による接収など紆余曲折を経て、現在の規模まで拡張さ
拓 西島
6月14日読了時間: 2分


W杯は参加できること自体が奇跡(昭和5年)
いよいよサッカーW杯北中米大会が幕を開けようとしています。私も日本代表戦のときは早起きしてテレビで観戦しようと思っております。今大会は参加チームが増えたため試合数も多くなっています。どんどん勝ち進んでいって何度も観戦できることを願っております。 さて、サッカーW杯の第一回ともいえるウルグアイ大会が開催されたのが、今から96年前の1930年(昭和5年)でした。日本サッカー協会の前身である大日本蹴球協会はその前の年の1929年にFIFAに加盟しており、もしかすると参加資格を得ていたのかもしれません。 日本サッカー協会ホームページ―沿革・歴史 https://www.jfa.jp/about_jfa/history/ ただ、実際には他の多くの国がそうであったように、前年に発生した世界大恐慌のあおりを受け、参加どころではなかったのではないかと考えられます。選手のみならず多くのスタッフを遠く離れた海外に長期間派遣するには経済力に余裕がないとできないことです。 現在においてもそれは変わらず、W杯に参加できていること自体が奇跡であるといえます。...
拓 西島
6月9日読了時間: 2分


世界的不況がもたらしたもの(昭和4年)
日本は今、日経平均株価が65,000円を超えるなど空前の株高ブームになっています。実は私も塩漬けになっていた株を持っており、長年ログインしていなかった証券会社のパスワードを何とか思い出して、心躍らせながら画面を見たのですが、なんと私の持っていた株は購入時より下がっていました。株とはなかなか難しいものです。 ところで、今から97年前の1929年(昭和4年)10月、ニューヨーク証券取引所では騒然とした雰囲気に包まれていました。世にいう「ブラック・サーズデー」です。これがのちに続く世界大恐慌の端緒となったといわれ世界中が不穏な空気に包まれていきます。 資金調達ができなくなった企業は投資を抑制し、工場での生産は停止し多くの失業者を生むことになりました。世界中の国々は、自国の産業を守るために過剰な保護主義に走り、国際的な緊張関係が続くようになります。 そして、自国の産業振興だけでは国民の窮境を救うことができなくなった国では、戦争によって侵略をすすめ市場や資源を収奪しようとする勢力、ファシズムが台頭し始めます。窮地に追い込まれていた国民もこれを支持し、やがて
拓 西島
5月31日読了時間: 2分


空の旅のはじまり(昭和3年)
GWが終わってしまい5月病になりそうな日々を過ごしていますが、皆様いかがでしょうか。今年のGWはカレンダーの並びがよく、国内外に飛行機を使って出かけた人も多かったようです。そんなわたくしも4月のGW前半に帰省がてら東京へ行っておりました。もちろん、飛行機に乗って。 日本で本格的な定期航空運輸をはじめたのは、日本航空輸送株式会社(※現在の日本航空JALとは無関係)であるとされています。昭和3年に渋沢栄一らの協力を得て官民共同で設立されました。 本の万華鏡 第5回 ようこそ、空へ―日本人の初飛行から世界一周まで―(国立国会図書館) https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/5/2.html 同社は、旅客輸送だけでなく郵便も取り扱い、記念切手が発行されるなど人々にも親しまれていたと記載があります。当時は高速道路などもなく、陸運が現代ほど発展していなかったことを考えると、郵便物や荷物が早く届くことは相当なインパクトがあったに違いありません。 この会社は、昭和13年(1938年)に大日本航空株式会社へと改組され、現在の国内外へ
拓 西島
5月8日読了時間: 2分


中継とスポーツ(昭和2年)
今年は、推しのヤクルトスワローズが調子よく、今日もネットで試合経過を見ながら完封勝利にほくそえんでいました。しかし、よくよく考えるとここ数年で実際にスタジアムまで試合を見に行ったのは数えるほどしかなく、ほとんどはテレビ観戦かネットで経過をチェックするくらいです。 昭和2年(1927年)現在の高校野球の前身にあたる全国中等学校優勝野球大会のラジオ中継が行われました。これは、日本で初めてのスポーツ中継でした。 第13回全国中等学校優勝野球大会(NHKアーカイブス) https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009060009_00000 ラジオ放送は1925年に開始されており、オペラや除夜の鐘(今の行く年くる年の前身)の中継など様々なコンテンツを作りだしていました。 中でもスポーツ中継は人気だったようで、高校野球の後に始まった東京六大学野球の中継は、同リーグ戦の認知度を広めるのに大いに役立ったとされています。そして、9年後の昭和11年にはプロ野球が始まります。おそらくラジオの存在なくしてプロスポーツは育
拓 西島
5月6日読了時間: 2分
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